重田光康氏の情熱の元
『本物を伝えたい!そして、本物を育てたい!』
『世界一の気合の入った真心のこもった店づくり。仕事を通じて、社会貢献できる豊かな人間育成道場』という情熱的な理念を掲げる会社がある。ロサンゼルスを中心に和食レストランを展開している新撰組グループである。本店は、2時間待ちは当たり前で、限られた食材の中でも最高の品質を提供し、世界中のお客様をおもてなししている。
『自分が本当に美味しいと思ったものを伝えたいんだ。自分の最高の思いを表現するために、このお店をオープンしたからね。』
と熱く語ってくれたのは、新撰組グループ代表で局長の重田光康氏。
重田光康氏は1965年に、奄美大島よりさらに南の鹿児島の離島である、徳之島に生まれた。闘牛が盛んな島で、重田氏の家でも闘牛を飼っており、闘牛の世話は重田光康氏の仕事だった。闘牛は大きな角を持っており、年に何人かは闘牛に殺される事件もあり、常に死と隣り合わせだったそうだ。
『牛の世話は毎日やってたよ。あと、親が土木の仕事をしてたから、幼い頃から現場に行ってたなぁ。親が「働かざるもの食うべからず」という方針で、友達と遊んだ記憶がほとんどないんだよ(笑)』
『牛の世話は毎日やってたよ。あと、親が土木の仕事をしてたから、幼い頃から現場に行ってたなぁ。親が「働かざるもの食うべからず」という方針で、友達と遊んだ記憶がほとんどないんだよ(笑)』
そんな重田氏は、中学・高校時代とやんちゃ坊主で、ドラマじゃないけど、中学入学時に3年生が挨拶にきたほどらしい(笑)。
空手はその頃から始めた。奄美大島は、秀吉の刀狩から、武器を持つことを禁じられていて、資源もないから作れなくなっていたので、空手がとても発展した地域だった。
体力もあり、何より負けん気が強かった重田氏は、高校時代には多くの高校をたばねる番長として活躍?する。
高校時代のエピソードには、喧嘩でヤクザをボコボコにしてしまい、家にヤクザが電話してきて、脅しをかけられたこともあったそうだ。でも、肝っ玉母さんが、
「あんたたち、ヤクザのくせに高校生にやられてどうする。脅しじゃなくて堂々とけんかで勝負しなさい。」
と逆にお説教したという逸話もある。
そんな重田氏だが、間違った道にも行かず、勉強もかなり行ったという。
『俺はレッテルを貼られるのが嫌だったんだよね。だから、誰よりも勉強して、常に勉強の順位も1位を取った。また、俺は仲間に絶対悪いことをさせなかった。タバコもやらせなかったし、また高校時代は寮のメンバーには勉強を必ずさせていたよ』
と。そんな中高時代を経て、大学を卒業後にアメリカへの留学を決める。
『大学卒業まで、本当に順調に来たと思っていた。本当に自分がやりたいことが全部できたって思ってたんだ。だから、言葉も文化も全く違う、誰も助けてくれる人がいないところで、自分がどれだけ通用するかを試したいって思ったんだ。だからアメリカに行こうと決めた。』
ただ、最初は、半年間くらいで帰国しようと思っていた。何より、自分が実家の家業を継ぐものだと思っていたのだ。しかし、半年間たってその想いは変わる。




